「ことばが劈(ひら)かれるとき」読了
- 作者: 竹内敏晴
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1988/01
- メディア: 文庫
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- 著者の竹内氏自身が、耳が聞こえず会話に苦労した少年・青年時代
- 舞台を通して生き返ったことば
- 逆にうまく言葉が出ない人の声を蘇らせた治癒の例
- 竹内氏の教育論
といったような構成になっている。
本書中でかなりの頻度で、メルロー=ポンティが引用されていて、そういった理論めいたところは、読みづらいし分かりづらいところもありましたが、ろうという障害になったこと、またそれを克服したことで普通の人には得がたい経験をしたことが文章に込められていて、非常に良かったと思います。
特に、「治癒としてのレッスン」の章で、次々と声の出ない人たち(特に障害というわけではない)を治していく過程は、非常に面白かったです。
人間って、ちょっとしたことで、できないことができるようになったりするもんなんだなあと。指導者の存在は非常に重要ですね。
いくつか印象に残ったところを書き出してみます。
「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同じい」魯人
なんだかナゾかけみたいですが、そのまんま取れば、「絶望」も「希望」もそもそも存在しないってことなんでしょうけど、そういわれりゃそうかなって気もします。ヘンに落ち込む必要はないということでしょうね。なんか、生きる力になる言葉です。
わかりやすいと言われたのは嬉しかったが、それは「わかりやすく話した」のではなく、自分がわかった筋道を語っていったに過ぎない
ちょっと目からうろこでした。
相手の立場になって考えろと言われますが、答えは自分自身の中にもあったわけなんですね。
現代の人間は、脳からいろいろな命令を肉体の各部に発して行動しているのだから、脳がいちばん大事な肉体器官だと思っている。言いかえると、意識が人間の行動を支配しているように考えている、ということだ。しかし、人間のからだが生きるために、意識が果たす役割はほんの少しにすぎない。人間は意識的に心臓を動かしたり止めたりできるか? 食べ物を消化できるか? 肉体をコントロールする動きは、ほとんど意識とは関係なしに機能しているではないか。人間が生きることの主導権は無意識の中にある。
からだは本来、私にとって、主体であると共に、私に見え、感じうるものとして客体でもある。言いかえれば、からだは本来、一人称であると共に三人称のものなのだ。
この辺、考え方として面白いなと思いました。
よく、色んな角度から物事を見ろと言われますが、こういう視点は自分では見つけづらいですよね。まさに、読書の賜物といえます。
全体的には、演劇とか舞台とか好きな人は、そういったエピソードが多く出てくるので、おすすめではないかなと思いました。