「生きることの意味―ある少年のおいたち」読了
- 作者: 高史明
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1986/01
- メディア: 文庫
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在日朝鮮人として戦中の日本で少年時代を過ごした筆者のおいたちを記したもので、その中で見出した「生きることの意味」が書かれていると思いました。
それよりもこの本の意義は、解説にあるように、
「日本にめざめる一つのいとぐち」
であると思いました。
かつて日本が朝鮮の国をうばった、そして今朝鮮半島はアメリカ合衆国とソヴィエト連邦との都合で二つにわかれており同胞は敵対関係にある。
とか、ちっとも理解していないし、もっと歴史をまじめに勉強しておけば良かったなあと思います。
韓国併合 - Wikipedia
創氏改名 - Wikipedia
を読みました。
繰り返し書かれていますが、逆の立場だったらどうするか。
国が奪われ、名前が奪われ、言葉が奪われ。とてもやりきれないと思います。
あと興味深かったのは、以下の文。
さきにわたしは、わたしの暴力が、他人を傷つけるものであると同時に、わたし自身をその暴力のなかに閉じ込めるものであるということをいいましたが、このことはそっくりことばの暴力をふるう者にもあてはまることなのです。他人をあざけることしかできない人間は、なによりもまず自分自身の人間性をあざわらっているのです。
もし人と人の関係がそのようなものだとすると、あざけったりあざわらわれたりする関係が、ほんとうの意味で解決されるには、あざける人間が、ただ黙ってしまうだけでなくて、あざけることが恥ずかしいことだということに気づくようになることが必要です。
そしてまたあざけられる者のほうも、あざけられるということは、あざける者の人間性を傷つけることではあっても、けっして自分自身の人間性がそれで傷つくものではないというしっかりした考えをもつようになることが大事だったのです。この意味では、あざけられて、怒り狂ってしまったわたしは、あざけられてもしかたのない未熟な人間だったといえるでしょう。
このように暴力とは、いつも考えのしっかりしない未熟な人間どうしの間で起きるものです。そして暴力とはまた、事態の正しい解決をとざしてしまうものとしてあらわれるのです。わたしが、この出来事のあと、深いさびしさにとらわれてしまったのは、暴力をふるって、このあざけったりあざけられたりという関係を、解決できない袋小路に追い込んでしまったからでした。
こういう考え方もあるのだなと素直に思いました。
まあ、ここまで達観できて、また、実際に行動に表せるかというと、また難しいとは思いますが。